林芙美子といえば、まず浮かぶのは幼少期からの不遇な半生の自伝的小説「放浪記」だ。冒頭に「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」と書いた。四国・伊予出身の父は行商人で、鹿児島・桜島出身の母は「他国者と一緒になった」と郷里を追われた。
庭が眺められるように机が置かれた書斎=新宿区中井の林芙美子記念館で
林芙美子(はやし・ふみこ)1903年生まれ。幼少期は行商人の父について九州各地を転々とした後、22年に単身上京。女中や露天商などで食いつなぎながら書いた「放浪記」が30年、ベストセラーに。相次いだ依頼に応え、小説に加えて随筆、紀行文も量産。戦時中には従軍記も書いた。51年、過労から心臓まひで47歳で死去。代表作に「牡蠣(かき)」「晩菊」など。
そんな芙美子が気に入り、落ち着いたのは田園風景が広がり、近くを流れる妙正寺川で小鳥がさえずる文士村だった下落合(現・新宿区中井)。「家を建てるなぞとは考えてもみなかった」という彼女が1941年についのすみかを新築し、約10年間を過ごした。
林芙美子が好きだった植物が植えられた記念館の庭=新宿区中井で
林芙美子記念館(終焉(しゅうえん)の地)として残る東西2棟の数寄屋造り。戦時中、住宅1棟の床面積は30坪に制限されていて2棟に分けて建てられた。東棟には茶の間や客間、西棟には書斎や寝室のほか、画家だった夫、緑敏(りょくびん)のアトリエがある。広い庭には芙美子が好きだった孟宗竹(もうそうちく)やアケビ、モミジが植えられ、書斎から四季折々の風景が楽しめる。学芸員の佐藤泉さんは「作家として成功した後も転居を繰り返した芙美子だが、信頼できる夫を持ち、愛する養子を迎え、母親の面倒を見ながら自分なりの理想的な家族像を実現しようとした。安心して帰れる初めての家だったのでしょう」と話す。
庭に咲くカノコユリ=新宿区中井の林芙美子記念館で
随筆「昔の家」に新居への思いがつづられている。「とっかかりの金をつくる事に二年、設計に一年、大工にまかせて三年、昭和十年から始めて、新しい家に引っ越し出来たのが十五年の六月」。実際には土地購入から完成まで2年ほどだが、うれしさからか話を盛ったあたりは芙美子らしさだろう。「入り口を狭く、奥行きを深く」「東西南北の通風は、日本のような風土では是非必要」と理想を語り、自ら設計図を何十枚と描いた。大工を連れて京都の建築を見学し、材木を買いに出かけた。
自慢の新居には作家仲間が集い、川端康成や太宰治、壺井栄らに手料理を振る舞ったという。無頼派、織田作之助の急逝後、太宰の仲介で織田の愛人、昭子の面倒をみたこともあった。一時は画家を夢見た芙美子は太宰の「ヴィヨンの妻」初版の装丁と挿絵を描いた。西棟のアトリエで絵筆を握ったのだろう。
料理好きの芙美子が食事を作った台所=新宿区中井の林芙美子記念館で
芙美子は18歳で上京後、工員、カフェ店員と職を転々とした。社会の底辺で小銭を数えながら書いた「放浪記」は当時、文壇から「ルンペン文学」とさげすまれもした。37歳で新居を構えてからは「浮雲」「めし」と文句なしの作品で評価されたが、面白いのは、放浪の果てにたどり着いた「古里」での評判を気にしていたこと。随筆に「近所のおばさんの話では此(この)近所で私を知らないものはもぐりだそうでコウエイの至り」と書き残していた。
文・鈴木伸幸/写真・田中健
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