戦前戦中に旧満州(中国東北部)へ農業移民などとして国策で送り出された「満蒙(まんもう)開拓団」の犠牲者らの慰霊式が12日、東京都多摩市の「拓魂(たくこん)公苑」であった。慰霊式は開拓団が編成されたそれぞれの地域で営まれるケースが多く、全ての犠牲者を対象にした集いは他にないという。(森本智之)

満蒙開拓の犠牲者を悼んで黙とうする参列者=12日、東京都多摩市の拓魂公苑で
公苑は、多摩市の丘の上にある。1963年、元開拓団員らでつくる「全国拓友協会」が慰霊碑を建立。これを機に毎年4月に式を開いてきた。2009年に協会は解散した後も有志が引き継いでいる。
満州への移民は、1932年に「満州国」が建国されたのがきっかけだ。支配を確立する目的のほか、当時の日本国内は農村部の耕地が不足し社会問題になっていたという事情があった。途中からは今の高校生前後の年代の青少年義勇軍も創設された。移民の総数は約27万人。そのうち約8万人が終戦直前のソ連参戦などで亡くなった。日本に戻れなかった残留孤児や婦人、ソ連によるシベリア抑留者も生み出した。
慰霊式には、最盛期には2000人も集ったと言われるが、戦後80年を過ぎて当事者は減り、この日の参加者は60人ほどだった。
「あと余命いくばくもないので、きょうは最後のつもりで参加しました」。東京都板橋区の星健一郎さん(91)は新潟県出身。1937年に一家で満州へ渡り1945年の終戦時は10歳だった。8月9日、ソ連が参戦すると、開拓団の仲間約200人での逃避行が始まった。父とは離れ離れになり、母が星さんや幼いきょうだいを連れて逃げた。

満州時代の思い出を話す星健一郎さん=12日、東京都多摩市の拓魂公苑で
一番下の弟は「当時3歳」。開拓団の幹部から「足手まといになるから置いていった方がいい」と声を掛けられた。「処分するということです。おふくろは...
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