午前8時頃、定位置の客席から大野安枝さん(90)はゆっくり立ち上がった。テーブルや椅子を伝いながら、調理場に入る。切り分けられた銀ダラをつかむと、しょうゆや砂糖などを合わせたタレが入った鍋に並べて、少し転がした。
ここは船橋市地方卸売市場(千葉県)場内の「大乃家食堂」。店は安枝さんと、長女の五十嵐好江さん(70)、孫の雅哉さん(43)の3人を中心に切り盛りする。
調理場から煮付けの匂いが漂い、30分ほど弱火で煮込んだ「銀ダラの煮付け定食」(1350円)が運ばれてきた。1970年頃の開業まもなくから出されている定番メニューだ。調理場から腰をかがめながら時間を掛けて客席に戻った安枝さんは「銀ダラは高級な魚。家だとなかなか食べられないからね」。
名に「タラ」とあるが、マダラとは違う脂がのった濃厚な味わいが特徴だ。つややかでふっくらした茶色の身に箸を入れると、ほろほろと崩れた。しっかりした甘じょっぱさがあり、ご飯が進む。「汁をご飯にかけて食べる人もいるよ。皮もおいしいから食べて」と雅哉さん。皮にもしっかり味が染みていた。
「主婦の手料理」。安枝さんは店の料理について、こう語る。実家が同じ県内の銚子市にある魚屋で、魚の扱いには慣れていたが、店を開くまで、家庭以外で料理をすることがなかったためだ。
若くして結婚し、家族で営む船橋駅近くの製氷会社で働いた。酒浸りで頼りにならない夫に代わり、熱心に働いた。
転機は、新しく作られることになった船橋市場だ。移転話が持ち上がったが、市場の男性たちから「女だから食堂を頑張って」と言われ、転身を決めた。
それからは「食堂のおかあさん」に。朝4時からおにぎりを作り、市場内の業者に届けた。競りが一段落した午前7時には弁当も配達。午前8時頃からは仕事を終えた人向けに食堂を開けた。「ずっと誰かが来るから、店を開け続けていた」と安枝さん。好江さんも一緒に働き始めたが、調理や仕込み、接客が忙しく、睡眠時間が1~2時間という日々が続いたという。
時がたつにつれ、安枝さんの「主婦の手料理」は「大乃家食堂」の味になった。「店の味を育てたのは、魚のプロの常連客たち」。安枝さんも好江さんも口をそろえる。仕事を終え、午前中からビールや日本酒を飲む人に合わせた濃い味付けの料理が並ぶようになった。しょうゆと砂糖を多めに使う銀ダラの煮付けもその一つだ。
高齢で店に来る機会は減ったが、常連がよく「おばあちゃんは?」と尋ねるという。5年ほど前に代表を引き継いだ雅哉さんは「まだおばあちゃんの店」と言い切る。
「やめたいと思ったことは一度もないの」とほほえむ安枝さんを中心に、常連客や初めて来た客で会話が弾む。安枝さんが片付けた皿を客が受け取り、調理場へと運ぶ光景も珍しくない。市場の仕事が終わったという男性客は午前9時頃、焼酎のお湯割りを手に「家庭にいるみたいだよね」とつぶやいた。
雅哉さんは15年ほど前、期間限定で手伝い始めたが、歩くのが遅くなった祖母の様子を見て、「年寄りをおいていられないでしょ」とプログラマーから転身すると決めた。
店は少しずつ変化している。「銀ダラの煮付け」の味付けは少し薄めになった。市場に多く訪れる一般客向けにしたためだ。電子マネーでの支払いや料理宅配サービス「ウーバーイーツ」も導入した。
魚を切る雅哉さんを、安枝さんは「おまかせしておけば大丈夫よ」とうれしそうに見つめる。「おばばに会えてよかったよ」。そう言って帰る客に「ありがとう。また来てね」と大きく手を振り、見送った。(生活部 林理恵)