「今日、東京都美術館は3周遅れの状態で美術館の潮流の先頭に位置しているようだ」と館長は語った。その言葉は東京都美術館、いや日本の美術館100年の紆余(うよ)曲折を象徴する。
今年は東京都美術館100周年。その記念展としてマスメディアとの共催で観客の大量動員を狙う所謂(いわゆる)“ブロックバスター”が次々と開催されている。その華々しさこそがまさに都美術館の特色。そんななか自主企画の「この場所の風景」は地味ではあるが、同館のもう一つの本質を印象付ける。

小池弘子、岡田波津子(多古子供アトリエC組合作)《私たちの遊び》1953年多古子供アトリエ児童美術館蔵(第5回読売アンデパンダン展出品)=筆者撮影
同館は東京府美術館として1926年5月1日に開館した日本初の公立美術館。当時「石炭の神様」と称された実業家・佐藤慶太郎からの寄付金100万円(現在では30億円以上という)により建設計画がスタート。
当初は同時代の日本美術の秀作を収集、展示する「常設美術館」を望む声もあったが、「まずは安定した我々(われわれ)の作品発表の場を」という時の美術家たちの要望により、主に美術団体と新聞社主催の展覧会会場として機能することになった。以後それが日本の公立美術館の規範となっていく。
しかし時代の進展とともに、「それは美術館本来のあり方ではない」という批判も強くなる。特に70年代後半からの全国的な公立美術館建設ラッシュのなかで、独自のコレクションとその常設展示、さらに学芸員の研究成果としての企画展という“欧米並みの美術館”なる志向が高まる。
東京都美術館も75年の新館開館とともに日本近現代前衛美術コレクションとそれらに関す...
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