神田川に架かる神田ふれあい橋から、柳森神社と、柳原土手があった地形を探る田中優子さん=千代田区で
簡単に物を捨てない。使ったものは売り買いし、また使う。そんなリユース・リサイクルのシステムが確立していたのが江戸の町だった。古道具屋や古着屋が集まり、にぎわったのが、柳原土手である。
かつての古道具屋通り、柳原土手の面影をかろうじて残しているのが柳原通りに面した柳森神社だ。太田道灌(どうかん)が鬼門除(よ)けにつくったという神社で、徳川家康の入府よりも古い歴史を持っている。現在の通りと同じ高さに鳥居があり、境内は川に向かって数メートル下がったところにある。鳥居があったあたりが、昔の土手ということか。
柳森神社の境内にある福寿神。通称「おたぬきさん」と呼ばれる=同区神田須田町で
この神社の名物といえば「おたぬきさん」。江戸幕府5代将軍徳川綱吉の母、桂昌院が信仰した福寿神の別名で、「他に抜きんでる」という意味から、立身出世や勝負事、金運向上などに御利益があると庶民の信仰を集めてきたそうだ。ユーモラスなたぬきの像が境内に何体もある。
柳原通りの歩道に埋め込まれた通り名のプレート=同区神田須田町で
他にも江戸の民衆文化の残滓(ざんし)があちこちに。たとえば若者が力比べをしたという力石や富士講のなごりを伝える石碑群など。耳を澄ませば、往時の雑踏のにぎわいが聞こえてきそうだ。
神社を出て西へ少し進むと、神田川にかかる歩道橋の「神田ふれあい橋」がある。すぐ横に鉄道橋があり、東北新幹線などが通り過ぎる。だが歩道橋の上は、どこかまったりとした空間だ。神田川を見下ろして、一息ついている人が何人もいる。
橋をわたり、細い路地を出たところで虚を突かれた思いがした。なんと、そこは世界に誇るジャンク文化の町、秋葉原の電気街だった。江戸時代のリサイクルを担った柳原土手は消えたが、時を経て対岸に似たようなにぎわいの町が形成されたことになる。
柳原通りの脇にある、柳原土手の様子を表した説明板=同区岩本町で
柳原土手は、神田川南岸を筋違(すじかい)橋から東に向かって柳森神社を経由し、浅草橋まで延びていた。筋違橋は現在の昌平(しょうへい)橋と万世橋の間にあった橋で、今はない。土手の長さは12町(約1・3キロ)に及んだ。
その土手に、江戸時代にはぎっしりと、古道具屋、古着屋、古本屋が並んだのである。固定の店舗ではない。移動可能なよしず張りの店である。
土手が終わる浅草橋の少し先に柳橋がある。それを過ぎると隅田川となる。その神田川と隅田川の交差点には、江戸時代は料理屋が立ち並んでいた。
土手に戻ろう。江戸には今の人形町の近くに富沢町という町があって、そこに古着屋の店舗が並んでいた。柳原土手には富沢町より安価なものが集まっていたようで、地方から仕入れに来る商人もいたという。
古着・古本・古道具は循環経済の要だ。特に古着は幾度もの丁寧な洗い張りの末にそこに来る。着物にも流行はあったが、そのサイクルは長い。数十年前の着物や帯を着けていてもおかしくない。布がだめになれば、その部分をよけて他のさまざまな用途に使った。そこで古着屋には、布団も端切れもある。
柳がこの地域のシンボルだった。太田道灌が1457年に江戸城を造った時、鬼門除けに柳を植え、柳森稲荷を祀(まつ)った。江戸時代になって柳の並木ができた。美しかったろう。今ではビルが川沿いまで迫って土手が見えない。残念だ。(江戸学者・法政大前総長)
柳原通りには、大正時代の関東大震災の後に東京で生まれた建築様式、看板建築の建物が残っている。岡昌裏地ボタン店もそのひとつ。店の前面に張られた銅板には緑青が吹いている。珍しいボタンが手に入る。
文・坂本充孝/写真・田中健
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