1枚につき40個の豆大福がのる餅板。隙間なく並びきった様は圧巻。
新店舗が次々と誕生しては消えていく、オールジャンルのグルメ激戦区、東京。そのなかで何世代にも渡ってお店を守り続け、客を魅了し続ける名品、名店がある。なぜ、それほどまでに人を惹きつけてやまないのか。その魅力を探る「名品さんぽ」の第28回は、東京三大大福の豆大福で知られた、連日行列ができる和菓子の名店「松島屋」を訪ねた。
都内屈指の高級住宅街で知られる高輪エリア。江戸時代には海を望む景勝地として大名屋敷が建ち並び、明治時代になるとその跡地に各界の要人の邸宅や、各国の大使館が建てられた。寺社や近代建築が多く点在し、今も格調高い街並みが形成されている。
そのなかでも、高輪1丁目は別格だ。高輪御所(高輪御殿)のある一等地で、大正時代には昭和天皇の東宮御所となり、その後、高松宮邸となり、戦後は敷地が半分に縮小されたものの、高輪皇族邸としてあり続けた。令和2年(2020年)から2年間は上皇・上皇后の「仙洞仮御所」として使用されたことも記憶に新しい。
「甥っ子が継ぐと言ってくれて、任せられる仕事も増えています」と嬉しそうに語る3代目店主の文屋弘さん。
その「旧高松宮邸」と称され、今も地域から一目置かれる区画の隣りに、赤と白のストライプの庇と真っ赤な暖簾が目を引く、昭和レトロな和菓子屋がある。そう、あの東京三大大福の名店として名高い「松島屋」だ。
「三大大福と言ってもらえるのはありがたいけれど、なんか…ちょっと恥ずかくてね」と人懐っこい笑みを浮かべるのは3代目店主の文屋弘さん。小さい頃から家業を手伝い、夜間の製菓学校で和菓子の基礎を学ぶと、そのまま家業入りした生粋の職人だ。
「僕の祖父である惣治が創業した店です。宮城県出身で、店名は故郷の松島からとっています。大井町で和菓子店を営んでいた兄のもとで修行した後、今の恵比寿ガーデンプレイスがある辺りに店を構えたそうです。でも当時は水の便が悪かったそうで、移転したのがこの場所。最初は借地借家からスタートして、少しずつ自分の店にしていったと聞いています」
創業は大正7年(1918年)。店が面した二本榎通りは、古くは鎌倉街道で野菜を乗せた馬車や牛車が行き交っていたという。坂が多く、人だけでなく馬も牛も行き来はきつい。休憩スポット、いわゆる茶屋として松島屋はたちまち繁盛し、近隣の“お屋敷”からも出前の声が頻繁にかかった。
「昔は寿司や海苔巻など和菓子以外のものも手広くやっていて、僕の父である2代目の時代に、母が体調を崩してから和菓子に一本化しました。幸い、高松宮様が地域の店を大事にしてくださる方で、うちを贔屓にしてくださったこと、晩年、高松宮様のお見舞いにいらした昭和天皇がうちの豆大福を見舞品に選んでくださったことで、いろんなメディアにも紹介していただきました」
餡はマットで淡い紫色の粒餡。赤エンドウ豆を引き立たせつつ、生地となめらかに調和する。
話題になった創業時からの看板商品「豆大福」(210円)は、いつしか東京三大大福に数えられ、なかでも塩味の塩梅が絶妙という高評価を得る。これは馬や牛を曳く汗だくの人たちの塩分補給を考慮した味付けで、月日が流れ、通りゆく人の様相は変わっても、その伝統の味は守り続けられている。
「製法もほぼ昔のまま。一時は機械化を考え、メーカーに材料を持ち込んで試作したりもしたんだけど、同じように作ってもどうも味が違ってね。昔ながらの手作りの味を伝え続ける。それが僕たちの仕事だという思いに至りました」
朝4時から仕込みが始まり、前の晩から水につけておいた餅米を蒸籠にかけて蒸し、同時に小豆を煮て、冷水を入れて50℃以下に温度を下げては再び煮る。たらいに移して水を何度も入れ替えては丁寧にアクを取り、絞り機にかけて砂糖と塩を加えて錬る。餅米は初代から使っているというレトロな餅つき機で搗くが、手水を加えて固さを調整するのはあくまで人だ。
小豆の絞り機、餅つき機はあるものの、作業のほとんどは手仕事。そのため豆大福は1日1000個作るのが限度で、早い日は11時に完売してしまう。それでも快活な対応と、1個のつもりが2個目に手が伸びる美味しさで、「並んでも買いたい」という人は後を絶たない。
のびやかな生地にたっぷりの赤エンドウ豆を投入。
作った日に売り切る豆大福は、材料をかなり厳選している。生地は宮城県産「みやこがね」、生地に練り込まれた赤エンドウ豆は、北海道富良野産、粒餡に仕立てた小豆も北海道富良野産を使用。
「一に材料、二に材料」が信条で、これに「一人前になるには10年はかかる」という熟練の技が加わる。厚すぎず薄すぎずの生地は甘くて弾力があり、赤エンドウ豆の歯応えとともに豆の香ばしい風味が口に広がる。すると、粒餡の素朴ながらもふくよかな甘みが口に広がり、風味がふわっと鼻から抜けつつ餅と餡がごくりと喉を通る。後味も軽い。
「甘さ控えめといわれますが、単に砂糖を減らすだけじゃ物足りない甘さになる。そうならないために塩の加減が重要なんです」と文屋さん。
塩味を効かせているが、しょっぱいわけではない。「小豆は皮と身の間に旨みがある」という考えから粒餡に仕上げ、手をかけすぎず、いかに素材の持ち味を引き出すかに神経を注ぐ。
ドスンドスンという餅をつく音が響く。餅つき機と呼吸をあわせて餅を作り上げていく。
「機械化、合理化を追求しすぎると心の豊かさが失われていくように思います。高輪のまちは山手の雰囲気はありますが、下町っぽさもあるまち。昔は店内で和菓子を食べながら1時間以上立ち話をして帰るお客さんがいるなど、実にのんびりした商売でしたよ。そんな時代の豊かさ、素朴さが伝わる自然な和菓子を提供し続けたいですね。それにまちも昔の面影が残っているので、少し遠回りしてまち散歩するのも風情がありますよ」
そう言って文屋さんは店を背に二本榎通りを右へ歩くこと数分の距離に、和洋折衷の大正建築の堀江歯科医院があり、さらに10分ほど先には東京都剪定歴史的建造物に指定された、今も現役の高輪消防署二本榎出張所が建っていることを教えてくれた。さらに消防署から左に桂坂を下ると両側に続く屋敷街だったことを思わせる石垣も「ぜひ見て欲しい」と推す。
坂をくだった先の第一京浜(国道15号)は大規模開発が進み、まちはまさに大変革期。だが、坂の上ではどこ吹く風とばかりに、今日も出来立ての豆大福が餅板に整然と並べられている。
「食べログ百名店」で2018年より5回選出された人気店。紅白の軒と赤い暖簾、午前中は行列が目印。
大正7年(1918年)創業。都営浅草線・京急本線泉岳寺駅より徒歩5分、または都営三田線・東京メトロ南北線白金高輪駅より徒歩8分。二本榎通り沿い、旧高松宮邸の隣に位置する。看板商品の豆大福をはじめ、きび大福や草大福などの大福やみたらし団子、赤飯、秋には電話予約必須の栗蒸し羊羹などの季節菓子を販売している。スタッフはパートやアルバイトを含む8人で製造販売を担当。商品は全て店頭販売のみで、予約は店頭と電話で対応。
<データ>
住所 東京都港区高輪1-5-25
電話 03-3441-0539
営業時間 9:30~15:00
定休日日曜・月2回月曜(不定休)
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