<戦後80年私のことば12月前編>
敗戦から4カ月となる1945(昭和20)年12月15日。東京都滝野川区(現在の北区)の志村建世さん=滝野川国民学校初等科6年=は、教科書のページを切り取ったり、墨で塗ったりする作業を続けていた。
「学校の教科書も、軍国主義の物はいけないというので、全部の教科書を、悪い所だけ削除することになり、このごろ毎日そればかりやっています」(15日付の志村さんの日記)

1946年の日記を手に、当時を振り返る志村建世さん=15日、東京都中野区で(池田まみ撮影)
当時の文部省は1945年9月、教科書から戦時色の強い表現を削るよう指示。さらに10月には、連合国軍総司令部(GHQ)が「日本教育制度に対する管理政策」という指令を出した。そこには「軍国主義的及び極端なる国家主義的イデオロギーの普及を禁止する」などとあった。
これを受けて、学校では教科書のページの切り取りや墨塗りを、子どもたち自身の手で進めていた。
日記の12月15日の続きを読むと「一頁(ページ)全部悪い所は切(きり)取り、一部分だけの所は墨で消して読めないようにしました。これをよくやらないでおいて見つかると、先生が首になるそうです」とある。

1945年12月14日、15日の志村建世さんの日記=東京都中野区で(池田まみ撮影)
この時に抱いた気持ちを、志村さんは今も覚えている。「鎌倉の歌だったかな。『七里ケ浜の磯伝い』とか『鎌倉宮にもうでては』とか、こんなことまで消さないといけないのか。いい詩なのに、ああ、こういうのはいけないんだなと、しみじみ感じた」
どうやら当時6年生向け教科書「初等科国語八」の74~77ページに載った唱歌「鎌倉」のことらしい。文部科学省のウェブサイトに、この部分の削除前後の写真がある。74ページは墨塗り、75~76ページは切り取り、77ペ...
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