
東日本大震災から13年。あの日、宮城県亘理町のイチゴ農家・浅野武彦さんは、押し寄せた津波によって自宅と農地を失った。「明日からどうしていくべ」。全壊した自宅や、跡形もなく消えたビニールハウスを前にうなだれる浅野さんの大きな支えとなったのが、仲間たちとのつながりと、支援の輪の広がり、そして、JA共済から迅速に支払われた共済金だった。浅野さんのこれまでの道のりについて、当時を知るJAのライフアドバイザー(LA/現LAトレーナー)の鈴木睦美さんも交え、放送作家の小山薫堂さんが話を聞いた。
「こうして海を眺めていると、13年前のあの日が嘘(うそ)みたいですね」。小山さんが訪れたのは、宮城県南部の海沿いの町・亘理町。2011年3月11日の東日本大震災では震度6弱の揺れに見舞われ、その1時間後に押し寄せた津波で町の半分が壊滅的な被害を受けた。
「そうですね。13年経ってもまだ信じられません」。そう答えるのは、祖父の代からこの地で暮らす、イチゴ農家の浅野さんだ。目の前の砂浜に打ち寄せる穏やかな波が津波へと姿を変え、黒い濁流となって町をのみこんだ様は今でも忘れられないという。
大きな揺れを感じたのは、自宅敷地内の小屋でイチゴの選別作業をしている最中だった。「10mの大津波警報に、ちょっと『本当かな?』とも思ったのですが、日頃の訓練の通りに、地震が収まるとすぐに家族を近くの小学校へ避難させました」
消防団の仲間と避難誘導へ向かう道中、ビニールハウスの様子が気になってほんの少し立ち寄ると、受粉のために飼っていたミツバチが倒れた巣箱の周りを不安そうに飛び回っていた。「明日直すから待っていて」と声をかけたのが最後、翌日には巣箱もハウスも何もかもが消えているだなんて、思いもしなかった。
「逃げ遅れていた人を車で避難所まで運んで、2往復くらいした頃でしょうか。気がついたら人の高さくらいある黒い波が自分たちの1kmほど手前まで迫っていました」
一夜が明けると、町は泥とがれきに埋もれていた。沿岸部には田畑が広がっていたが、津波による塩害で農地としては使えなくなった。震災を免れたイチゴ畑は、となりの山元町と合わせてたったの5%しかなかった。
震災から2年後。国や自治体の支援で、畑を失ったイチゴ農家のために「いちご団地」が整備された。以前の農地よりも内陸側の3地区に、合わせて103棟の大型ハウスが新設され、そのうちの一つ、「開墾場いちご団地」では現在、浅野さん含め28軒の農家がイチゴを育てている。
「開墾場いちご団地」全体を見渡せる高台へやってきた小山さんは、ハウスのはるか後方に広がるなだらかな山なみを眺めながら、「気持ちのいい場所ですね」と浅野さんに声をかけた。
亘理町は、北は阿武隈川、西は阿武隈高地に囲まれ、沿岸から山のふもとまで平野が広がる。冬でも比較的暖かく、夏は海風が暑さを和らげる温暖な気候で、農作物の生産が盛んだ。とりわけイチゴは、山元町と合わせて東北一の生産量を誇る。
浅野さんの案内で、ハウスの中へ。ハウス内は広々としていて明るく、鈴なりのイチゴからは甘い香りが漂う。「イチゴって、地面で栽培している印象があったんですけど……」。そう話す小山さんに、「震災前は土耕栽培をしていたのですが、塩害で高設栽培に変えたんです」と、浅野さん。
高設栽培では、地面から1.2mの高さにプランターを並べて育てるため、イチゴはちょうど大人の腰の高さのあたりに実る。そのため、収穫時にしゃがむ必要がなく、体への負担は少ない。
初めての高設栽培に、地元の仲間と試行錯誤しながら取り組んできた。以前の畑に比べると栽培面積は減ったものの、作業効率や生産性が上がったため、収穫量は変わらないという。「震災を機に、もともとあった仲間たちとの助け合いの絆がさらに強くなったと感じています」
自慢のイチゴを、小山さんも一つ摘んでみることに。プツッと軽い手応えがして、手のひらに大きな赤い実が転がる。「めちゃくちゃおいしいです! 甘みと酸味のバランスがいいですね」
浅野さんが現在育てているのは、宮城県の品種「もういっこ」。震災時にはイチゴの生産量日本一の栃木県で開発された「とちおとめ」を栽培していた。「同じ品種を育てている栃木の生産者の方とは震災前から交流があったのですが、被害を知ってすぐに苗の提供を申し出てくれました。とてもうれしかったです。再建に向けた大きな力になりました」
大型ハウスの新設と、生産者同士の助け合いに加えて、浅野さんの生活再建の大きな力になったのが、JAのライフアドバイザー(LA/現LAトレーナー)の鈴木睦美さんの存在だ。「我が家の守り神なんですよ」と、浅野さんが小山さんに紹介すると、鈴木さんは少し恥ずかしそうにほほ笑んだ。
2人は子ども同士が同級生で、鈴木さんの夫は浅野さんと同じ消防団に所属。家族ぐるみの付き合いは、もう20年以上になるという。「家を建てるときも、子どもが生まれたときも、睦美さんがJA共済の契約内容の相談に乗ってくれました」と、浅野さん。
東日本大震災では、浅野さんも鈴木さんも自宅は全壊。避難所で2家族同じ布団にくるまって、不安な日々を過ごした。「明日からどうしていくべってときに、睦美さんに『大丈夫だよ』と声をかけてもらえたのが本当に心強くてね。睦美さんだって、建てたばかりの家が被災して大変な状況だったのに」
避難所には、家を流木に貫かれた人や、農地を失った人が大勢いた。鈴木さんが、不安を募らせる契約者一人ひとりに直接声をかけて回ることで、みんなが冷静さを取り戻していく様子を、浅野さんは見ていた。
当時の心境を小山さんに問われた鈴木さんは、「どうにか私ががんばらなくては」という気持ちだったと振り返る。そして、鈴木さんの「大丈夫」の言葉通り、損害調査は迅速に行われ、早々に共済金が支払われた。
今、浅野さんは改めて「JA共済に入っていて良かった」と感じている。「いつもの生活にすぐに戻れたのも、JA共済のおかげ。何かあっても安心できるっていうのは、すごく大きいですよね。JA共済という備えがあるから、これからも安心してイチゴ作りに専念できます」
「13年経って、どんなことを思いますか?」。小山さんが尋ねると、浅野さんは「難しい質問ですね……」と少し間を置いてから、言葉を続けた。「やっぱり、13年前は海がとっても怖かったんですよ。でも、いろんな人からの助けがあって、仲間との支え合いがあって、生活が再建できたから、海と向き合えるようになってきた。それは良かったなって思います。今もちょっと怖いですけど、海からは恵みもたくさんいただいているので、ここからは離れられません」
浅野さんの夢は、亘理町を日本一のイチゴの産地にすることだという。「生産者として一番の幸せは、自分が作ったイチゴを『おいしい!』と言ってもらえること。だからこれからも、みんなで協力してイチゴ作りの技術を高めていきたいですね。津波の被害があったことで町外へ出ていってしまった方もいる一方で、近頃はイチゴ農家の後継者として若い方が増えてきているんですよ。仲間たちと笑って暮らしながら、町が発展していく様子を見守っていきたいです」
力強い言葉に、小山さんも笑顔を見せた。「イチゴって、人を幸せにしますよね。ケーキとかシャンパンとか、華やかな場に映えるので、幸せの象徴のようなイメージがあります。これからもぜひ、人を幸せにするおいしいイチゴを作り続けてください」
(文・渡部麻衣子 写真・内山真)